2009年06月16日

乳酸菌(にゅうさんきん)は、代謝により乳酸を

乳酸菌(にゅうさんきん)は、代謝により乳酸を生成する細菌類の非学術的な総称。ヨーグルト、乳酸菌飲料、漬け物など食品の発酵に寄与する。一部の乳酸菌は腸などの消化管(腸内細菌)や膣の内に常在して、他の病原微生物から生体を守り、恒常性維持に役立っていると考えられている。

乳酸菌という名称は、細菌の生物学的な分類上の特定の菌種を指すものではなく、その性状に対して名付けられたものである。発酵によって糖類から多量の乳酸を産生し、かつ、悪臭の原因になるような腐敗物質を作らないものが、一般に乳酸菌と呼ばれる。乳酸菌は、その発酵の様式から、乳酸のみを最終産物として作り出すホモ乳酸菌と、アルコールや酢酸など乳酸以外のものを同時に産生するヘテロ乳酸菌に分類される。また、その細菌の形状から、球状の乳酸球菌(にゅうさんきゅうきん)と桿状の乳酸桿菌(-かんきん)に分類されることもある。ただし、これらはいずれも便宜的な分類名である。

一般に、乳酸菌と呼ばれて利用されることが多い代表的な細菌には、以下の6属が挙げられる。いずれも発酵によって多量の乳酸を産生するだけでなく、比較的低いpH条件下でよく増殖する。これらの菌にとって乳酸は発酵の最終産物であると同時に、それを作り出して環境を酸性に変えることで他の微生物の繁殖を抑え、自分自身の増殖に有利に導く役割を持つと考えられている。
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ラクトバシラス属 (Lactobacillus) [編集]
グラム陽性の桿菌でありラクトバチルスとも呼ばれる。一般に「乳酸桿菌」と呼ぶ場合狭義にはこの属をさす場合が多い。種によって乳酸のみを産生(ホモ乳酸発酵)するものと、乳酸以外のものを同時に産生(ヘテロ乳酸発酵)するものがある。L. delbrueckii、L. acidophilus、L. caseiなど。

ラクトバシラス属は野外から容易に分離され、ヨーグルトの製造に古くから用いられた。ヒトや動物の消化管にも多く生息しており、その糞便からも分離される。また女性の膣内に生息するデーデルライン桿菌と呼ばれる細菌群も、主にラクトバシラス属で構成されている。

また、L. fructivorans、L. hilgardii、L. paracasei、L. rhamnosusなど、ラクトバシラス属の一部にはアルコールに強いものがある。これらは日本酒醸造の現場では「火落ち菌」と呼ばれ、この菌の混入は日本酒の異臭や酸味などの発生(火落ち)の原因になるが、L. paracasei , L. plantarum は、ワインのマロラクティック発酵を行う[1]。

ビフィドバクテリウム属 (Bifidobacterium) [編集]
グラム陽性の偏性嫌気性桿菌で、増殖の際しばしばV字型、Y字型などに分岐した形態を示す。俗にビフィズス菌とも呼ばれる。ヘテロ乳酸菌の一種で、乳酸と酢酸を産生する。B. bifidumやB. adolescentisなど。

ビフィドバクテリウム属の細菌は、乳児のうち特に母乳栄養児の消化管内において最も数が多い消化管常在菌である。その後、加齢に伴って他の嫌気性細菌に取って代わられる。

2009年05月30日

政略結婚が普通であった当時

秀吉とは珍しい恋愛結婚だったと言われている。資料によると2人は「野合で結ばれた」と書かれており、これは縁談などが全くない恋愛だったことを意味している。もっとも当時の秀吉の身分はまだ非常に低く、ねねも浅野家の養女に過ぎなかったためある程度の自由恋愛も可能だったと思われる。それでも結婚時点での身分は、ねねの方がずっと上であった。
ねねと秀吉の結婚に彼女の実母・朝日は生涯反対していたために、浅野長勝の養女となって結婚した。
信長とは個人的に親しかったらしく信長が安土に移った頃、ねねから秀吉の浮気を訴えられた信長は彼女に激励の書状を送っている。この書状は信長が部下の妻にあてたものにしては非常に丁寧な文章であり、信長の女性に対する気配りと秀吉とねねの夫婦仲をうかがわせる数少ない史料である。大意は以下の通り。
「…この前久しぶりに会ったがあなたはいっそう美しさが増している。藤吉郎(=秀吉)があなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あの『ハゲネズミ(=秀吉)』があなたほど素晴らしい女性を他に得られるはずはないのだから、あなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい…」
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豊臣政権においては「糟糠の妻」の功績から大きな発言力と高い政治力を持っていた。彼女自身は改宗することはなかったが、イエズス会の宣教師たちには色々と便宜を図っており、ルイス・フロイスは「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」とまで賞賛している(『日本史』)。なお、フロイスはその『日本史』の中でねねを「女王」と称している。
関白就任後の秀吉に対し、諸大名の面々の前で尾張訛りの口喧嘩をしたとの逸話もある通り、気の強い女性であった。
甥の秀秋を可愛がっていないことをたしなめる秀吉からの手紙が現存している。
前田利家の正室の芳春院とは親密な関係であったという。

2009年04月27日

攻城戦

攻城戦(こうじょうせん)とは、敵の砦、城、城壁都市を奪取するための戦闘のことである。

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古代から近世初期にいたるまで、野戦と並ぶ2大戦闘形態の1つであった。

孫子では、防御に徹する守備側を攻略することは容易ではなく、攻城は下策で最も避けるべきと述べているが、偶発的な要素に左右されることも多い会戦と違い、十分な計画と準備を行えば、少ない兵員の損害で予定した成果が得られるため、名将と呼ばれる者でこれを好む者も多く、攻め手側の統率、技量が問われた。

城塞の技術は、15-16世紀の火薬、大砲、銃の活躍によって大きく変化しており、この後の要塞を攻める行為も類似の戦闘ではあるが相違点も多い。従って、本項ではそれ以前の攻城戦を中心に記述する。また、兵器の攻撃力が発達した現代の戦争では「大軍をもって城に立て籠った敵を攻める」という行為が行われる可能性は低いが、装備品の有無や城の定義(城参照)によってはこの限りではない。

古典的な戦記などでは会戦が多く描かれるが、実際の戦争は「小競り合い」と「攻城戦」がほとんどを占めたといえる。城内の防御側勢力が長期に渡り守勢に徹して攻撃側と対峙し続けることは「篭城」(ろうじょう)と呼ばれ、城が攻撃側の侵入を阻止し切れずにその支配権を明け渡すことは「落城」(らくじょう)と呼ばれる。

2009年04月10日

コーラングレ

コーラングレ(コール・アングレ、cor anglais)またはイングリッシュホルン(english horn)はダブルリードの木管楽器の一種。オーボエと同族のF管楽器で、オーボエよりも低い音を出す。希にアルトオーボエ(alto oboe)と呼ばれることもある。

コーラングレは、楽器の先端部(ベル)が、しばしば「洋梨のような形」と形容されるように、丸く膨らんでいるのが外観的な特徴である。名称は、元々この楽器の形状が湾曲していたこと(後述)から「曲がった角笛」を表す「コール・アングル」が誤って「イングランドの角笛」をあらわす「コール・アングレ」に転じたことに由来すると言われる。従って、フレンチホルンとはまったく関係が無い(フランス語の発音ではむしろコロングレと読まれるべきである)。

大バッハの頃のバロック期後半に用いられたオーボエ・ダ・カッチャ(直訳では“狩りのオーボエ”の意)と呼ばれた楽器が原型。これは管体が大きく湾曲しているのが特徴で、先端部にトランペットのような金属製のラッパを取り付けたものもある。この名残で、19世紀頃まで湾曲したり中央で折れ曲がった形状のコーラングレがあった(「ホルン」=角笛の名が付くのもオーボエ・ダ・カッチャの名残であろう)。なお、オーボエ・ダ・カッチャと同時代に、フランス語でテノール・オーボエを意味する「ターユ・ドゥ・オーボワ」(taille de hautbois)または「ターユ」と呼ばれる、同じF管の音域ながら真っ直ぐな管のオーボエ属の楽器も存在した。これが現在のコーラングレに最も近い。

オーボエと同じ指使いでオーボエより完全5度低い音が出る(つまり、楽譜上の記音「ド」(ハ、C)の音を出すと、実際にはその下の「ファ」(ヘ、F)音が出る)。このため、オーボエ奏者が演奏しやすいよう、オーボエと同じ指使いの音を同じ音符で書く。従って、記譜された音から完全5度低く鳴るヘ調の移調楽器である。オーケストラではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多い(ごく稀に、アルト譜表に実音で記譜されることがある)。

音域は2オクターブ半ほどである。ただし、オーボエの最低音変ロ(B♭)音に相当する音(実音で中央ハの下の変ホ(E♭))を持たない楽器も珍しくない。

パッチ ジベタリ ダゴン ライト スタウト 天福 クロム サマリア リポータ 東海道 バック ストイシ メディシ バレンシ みずほ セラピー シビリテ チレン ノニオン いかほ フォルム なんごう ガロール スパン あの海 マフラ めむろ ナゲット マスカ ボール パート スノー ピーケ パーセル ドオド レインボー マガジン ギャグ チェアマン 海岸通り 千年の時 シャド 白うり ティクス バトラ コボル ユーカラ キンバリー デラウ しじゅう

2009年03月26日

人間の性

人間の性(にんげんのせい、Sexualité Humaine)、あるいは人間における性存在性(セクシュアリティ、Human Sexuality)とは、性的本能の充足に関係する行動や性的振る舞いの総体を指す。セクシュアリティは多様な位相(アスペクト)を備え、それらは時として相互に矛盾することがある。生殖、健康、快楽などの位相で、葛藤が起こりえる。また人間関係、社会、法律、道徳や、宗教的禁忌などの位相においても、性をめぐって葛藤が生じることがある。

人間の性存在性を研究し、またその障害の克服について研究する科学が Sexologie(広義の性科学)である。

人間の性存在性(セクシュアリティ)とは、人間における性的な感覚や感情の表現様式、人間同士の性を介しての親交、また性を通じてのアイデンティティの表現や、更に、性の影響を受けたり、性に基づく人間存在の表現様式を意味する。

人間のセクシュアリティには、非常に多数の様態が存在する。人間の性存在性には、性と人間の性的行動に関する、生理学的、心理学的、社会的、文化的、政治的、そしてスピリチュアリティまたは宗教的な位相を含めて、広範囲な行動とプロセスが包摂される。哲学や、わけても倫理学、そして道徳性の研究が、神学での問題提起も含めて、セクシュアリティの主題を扱う。

いずれの時代においても、文化においても、文学そして美術を含む芸術一般、加えて風俗やサブカルチャーが、当該社会のセクシュアリティに関する把握や見解の実質的ありようを提示して来た。ほとんどの社会と法的権力において、どのような性的行動が許容されるのかに関する法的規範が存在する。セクシュアリティの内実は、世界中の文化と地理的地域を横断して変動し、歴史を通じて絶え間なく変化している。
あっさぶ スロン カーリー デブー ナックス デブリ タング バケツ スメア マンドリル シュテム アーム リッド ピエロ 南瓜 プラス シャンピ スタン ピッツァ いゆふぇく ライブラリー タジア ダンガ モック タイム クシン モッズ トリック ピンマイク 黒太陽 スナンサ ザニア パロール セージラ オーセン モービル ニシキギ ガスケット スラック ストック ジャガー リベンジ デカップ スペア キドニー ヤソウェ 上海慕情 イニシ きほく モラルレ


人間の性の広がり [編集]
「人間の性(セクシュアリティ)」という言葉は、非常に幅広い領域を扱う。

人間の性に関する生理学(または、事実上の生物学)、及び性に関連して人間の身体がどのように働き機能するか。生理学だけではなく、生殖器の解剖学や、性行為における性の心理学の問題も含む。
どのような人に、またはその他の生物や物体に、人間は性的に関与し、または魅惑されるか。「性的指向」または「性的嗜好」。
人間は、その肉体的機能及び外見とは別に、自己をどのように認知するか、すなわち個人的アイデンティティ(ジェンダー・アイデンティティ)を有する。「性自認」。「間性(intersex)」、「トランスセクシャル(transsexual)」。
性対象選択において、人間はどのようにこの選択を行うのか。「環境、性対象選択、性的指向」。
人間は、性的な活動を求めるとき、または性的パートナーとのあいだで、どのように振る舞うのか。また人間が性的に志向する行動の種類と範囲。「人間の性的行動」。
性の心理学的な意味。これは、性の感情面での効果や、生理学的な効果、あるいは社会的権力(社会的地位)、自己や他者のコントロール、また性的な安全性の必要など、心理学的なアスペクトと結びついていることがある。
性と社会構造との関係性。結婚における性、宗教、道徳、そして法律における性。
芸術とメディア(セクシュアリティの描写・描像)。
社会風俗としての性のありようの多様さ。社会的な性風俗。
売買春。性における社会的搾取と個人の自由。
ジェンダーと性役割。社会構造と性差別。フェミニズムと性同一性。
性教育。
セクシュアリティに関連する社会の規範(ノルム=正常規準)、伝統・慣習及び儀式・儀礼。
社会規範(ノルム)を逸脱する性的活動に対する理解。(「性的倒錯」を参照)。
何が許容できない行為か、性的虐待に対し誰がヴァーナブル(被攻撃的)であるか、どのように性的弱者を守り、虐待者に対処するか。こういったことについて、社会は、どこに線引きを行うのかをどのように判定するのか(すなわち、どこまでが性犯罪かどうかの線引き判定を行うのか)。
性と生殖の問題。生物学的には、性は生殖の手段としてあるとも言えるが、近代及び現代となって、人間の寿命が延びると共に、避妊法の発達により、性と生殖の分離が色々な意味で起こっている。
生殖としての性以外に、快楽としての性、自己認識としての性があり、社会的には産児制限が色々な局面で問題を持つ。性の快楽・自由と生殖の負荷は、社会の持つ倫理的・宗教的規範とのあいだで葛藤を齎すことがある。
人口の増大を抑制するため少子化政策を取らざるをえない社会がある他方、少子化により労働人口や、社会の構成人口に不均衡が生じる社会もあり、これは現在において、そして将来的にも社会的問題となる。
人間のセクシュアリティについての研究・調査。キンゼイ報告がその例である。

2009年03月11日

ジョギンズ

ジョギンズはカナダのノバスコシア州カンバーランド西部にある農村である。かつては炭鉱町として栄えたが、現在ではむしろ石炭紀の化石の採掘地として知られる。「ジョギンズの化石の崖群」は2008年に世界遺産に登録された。
ファンディ湾内の小さな湾(sub-basin)であるカンバーランド湾(Cumberland Basin)に位置するジョギンズは、かつては石炭の採掘地であった。カンバーランド湾岸沿いに露出している石炭層は、17世紀には地元のアカディア入植者(local Acadian settlers)たちによって採掘されていたが、商業的な採掘が行われるようになったのは1819年以降である。それ以降、採掘された石炭は、船に積まれ、ニューブランズウィック州セントジョンなどの市場に出荷されていた。

カンバーランド地方では、一帯の石炭採掘権を獲得したジェネラル・マイニング・アソシエーション(General Mining Association)の下で、大規模な工業化を遂げた。1870年代にインターコロニアル鉄道(Intercolonial Railway)が建設され、1887年にジョギンズ鉄道(Joggins Railway)の開通が続いたことで、生産量が増大した。ジョギンズ鉄道はジョギンズの鉱区からリバー・ヘバート(River Hebert)経由でマッキャン(Maccan)のインターコロニアル本線までの12マイルの鉄道であった。

石炭採掘はその後も成長を遂げ、ジョギンズは1919年に町(Town)に格上げされ、その地位を1949年まで維持していたが、その頃に石炭採掘が失速し、人口流出や経済的な衰退に結びついた。

20世紀最初の数十年には、ジョギンズの石炭は主にマッキャン近くの2基の発電所に供給されていたが、それらの発電所は1950年代には時代遅れになっていた。そして、1958年のスプリングヒル炭鉱事故(Springhill Mining Disaster)から程なくして、ジョギンズの炭鉱は閉山された。この地域への鉄道路線も1960年代初頭には廃止となった。

ジョギンズはおよそ3億1000万年前にあたる石炭紀の化石群の存在で知られている。海岸沿いには石炭紀の岩石が露出しており、ジョギンズの化石の崖群(Joggins Fossil Cliffs)と呼ばれている。この崖は、カンバーランド湾に押し寄せる潮の干満で常に新しい壁面を露出する。
モンブラ こまひ レイク モミジ プルライフ 月の海峡 しおじ コメン フォール ショートケー ティーホル メーカー オートメ わかた ビーフ イザヤ ロストル フリース エイグ ススキ ヒーロー チフス シーズ レード サルト マンパ サイトむい パクチー せりか ゲート ちこり メナム ション ストッキン オフス イソップ シュボド マップ ノンフ スツール ハイパー ドミノ タシケ コダチア プレス バウンス スーパー リコリス ハラム ウチク

この崖の名声は19世紀半ば、『地質学原理』( Principles of Geology)の著者であり近代地質学の父チャールズ・ライエルが1842年と1852年に訪れたときに遡る。ライエルは Students' Elements of Geology(1871年)において、ジョギンズの崖に露出している石炭紀の岩と化石は、世界最良のものであると評価した[1]。

ジョギンズの化石記録はチャールズ・ダーウィンの『種の起源』でも触れられており、1860年にサミュエル・ウィルバーフォースとトマス・ハクスリーの間で繰り広げられたオックスフォード大学での進化論論争でも引き合いに出された。

ジョギンズにおける化石記録の多くはノバスコシアの地理学者ジョン・ウィリアム・ドーソン(John William Dawson, 1820年 - 1899年)によって発見された。ライエルは、彼にとって友人であると同時に師でもある存在で、二人は個人的にも研究上でも親しい間柄だった。ドーソンのコレクションの多くは、マギル大学のレッドパス博物館(the Redpath Museum)に収蔵されている。

ライエルとドーソンは1851年に炭鉱の直立した化石木のうろに埋もれていた四肢動物の化石を発見した。ドーソンによるその後の調査が、科学史上でも最重要級の化石の発見に繋がった。それは生物史上で最も初期のものと認識されている爬虫類で、最古のものとして知られている有羊膜類でもあるヒュロノムス・リュエリ(Hylonomus lyelli)である。このグループには、水から離れて繁殖することができるようになった脊椎動物全てが含まれ、爬虫類、絶滅した恐竜やその近縁、鳥類、哺乳類などで構成されている。ノバスコシアで出土したヒロノムスの化石に、2002年にヒュロノムス・リュエリ(ライエルのヒュロノムス)の名が与えられた。

ジョギンズで調査を行った19世紀の著名な他の地質学者には、ケロシンの発明者であるエイブラハム・ゲスナー(Abraham Gesner)、カナダの地質調査(Geological Survey of Canada)で崖の測定を行ったウィリアム・ローガン(Sir William Logan)などがいた。

2007年にジョギンズの化石崖群を構成する長さ15 km の海岸線が、カナダ政府によって世界自然遺産に推薦され、2008年7月7日に正式登録された。

2009年02月22日

タヒチ語 (reo Tahiti)

タヒチ語 (reo Tahiti) はオーストロネシア諸語の東マレーポリネシア語派に属し、フランス領ソシエテ諸島のタヒチ島およびその他の島々で話されている言語。東マレーポリネシア諸語の一角をなし、タヒチ諸語の中心的な言語とみなされる。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

タヒチ語は「レオ・マーオヒ (reo mā’ohi)」諸語の中で最も重要な言語である。この名前は、フランス領ポリネシアで話されている言語を一括りにしたもので、「語群」でまとめられる言語の集団を越えたものである。「レオ・マーオヒ」には、タヒチ語の他に以下の言語や方言が含まれる。

トゥアモトゥ諸島の言語「レコ・パウモトゥ」および7つの方言的変種を含む
マルキーズ諸島の言語。北西部の言語(エオ・エナナ)と南東部の言語(エオ・エナタ)
オーストラル諸島の言語およびその変種。「レオ・ラパ」とオーストラル語。ルルトゥ、トゥプアイ、リマタラ、ライババエと呼ばれる変種に分類される
ガンビエ諸島の言語、レオ・マンガレバ
これらの言語は発音が異なることもあれば、互いに意思疎通ができない場合もある。この地域で様々な言語の話者が意志疎通を行うのにフランス語が最も標準的な言語であり続けていることを除けば、実際タヒチ語は、話者人口の多さから、また地域の行政やコミュニケーションの手段として用いられることから、フランス領ポリネシア住民の多くに理解される。

他のポリネシア諸語と同じく19世紀までタヒチ語には書き言葉がなく、文字によらず口承によって存続していた言語だった。タヒチ語を初めて文字で表す作業を行ったのはロンドン宣教師協会の宣教師らだった。タヒチ語が話し言葉のみの言語だったこと、最初に文字で記したのがヨーロッパ人だったことから、ラテン文字が多少独自の特徴を加えつつこの言語の表記に使われている。

タヒチ語は、他のマレーポリネシア諸語と同様に、太平洋の様々な島々への移民・定住にその起源を持ち、この移住によりポリネシアに散らばる38の言語に分化することになる。この分化は言語変化の速さだけでなく地理的な分散の速さの結果でもある。紀元前1600年から1200年の時期にラピタ文化が発達し、ニューギニアからフィジー、トンガ、サモアにまで広まった。これらのうち最後の二つの島から他の島への移民・定住が紀元前300年頃に始まった。

フィジーはメラネシアの文化・言語圏で、近隣のトンガやサモアへの移住の出発点だった。この3島を結んでできる三角形の中で、ラピタ文化のために太平洋に広まっていたメラネシア諸語から派生したフィジー・ポリネシア祖語が形成された。メラネシア文化圏にありこの文化と強くつながっているフィジーは、例えばメラネシア文化が陶器を使わなかったのと同じく新たな文化を生み出さず、文化の革新を継続させたトンガやサモアとは異なっていたが、フィジー・ポリネシア祖語と同様ポリネシア文化が形成されたのはこの三角形の中だった。

メラネシア文化とは異なる特異性を持ったこの新しい文化がポリネシア文化の起源だった。結果として、紀元前300年にトンガとサモアから航海が始まると、メラネシア海の文化とは違う独自の文化が輸出された。そしてこの文化とともに将来ポリネシア諸語の起源になる新しい言語がもたらされた。

トンガとサモアで始まった移民は、クック諸島、タヒチ、トゥアモトゥ諸島という経路を通り、マルキーズ諸島で終わった。この最初の移民で、トンガ諸語、サモア諸語、タヒチ諸語、マルキーズ諸語とポリネシア諸語内で大きなグループ分けがなされた点が注目される。これらの祖語は将来派生する言語群の初期段階となり、のちにはその祖語と同じ名を持つ下位集団を形成することになる。そのうち現在存続する唯一のものはトンガ祖語であり、トンガ語とニウエ語にわかれる。さらに、トンガ語は38のポリネシア諸語の母言語として再建されるポリネシア祖語に最も近い言語である。

タヒチ祖語が、中央ポリネシア(クック諸島、ソシエテ諸島、トゥアモトゥ諸島)そしてもっと後にオーストラル諸島に定住した最初の移民の波の間どのように形成されたのかは重要である。タヒチ語の源流はポリネシア文化があった時代の初期には既に見出せる。その変化の後期段階では特徴的な音素のうちいくつかが失われ、タヒチ諸語の他の言語ではこれらが現在の形に変化している。それぞれの地域が孤立していたため、起源を共有していても話者間の頻繁な交流はなく、下位の言語集団が断絶・分断し各言語ごとに個別の変化を遂げ独立した言語が生まれた。

西暦1000年頃にこのポリネシア中心部から新たな移民が始まり、この時に既に形成されていた言語のうちタヒチ系言語の使用地域が拡大した。マルキーズ諸島を発った人々が400年頃にハワイで人口を増やしたのと同様に、11世紀にはソシエテ諸島やクック諸島を含むタヒチ諸語の中心部からニュージーランドへの移住が行われた。つまり、マルキーズ諸島の言語と同じように、移住によってタヒチ系言語圏が大幅に拡大したということである。ニュージーランドではやがてもう一つのタヒチ系大言語、マオリ語となる言語が形成された。マオリ語とタヒチ語が双子の言語であるとも、一方がもう一方から派生したとも言えない。片方をタヒチ語、もう片方をクック諸島のマオリ語と呼ぶのと同じ具合に、マオリ語がタヒチ語の方言とは別に発展した結果であると見るべきである。

タヒチ語、マオリ語、クック諸島のマオリ語の3言語は、それぞれの諸島・群島の各々に分かれて発展と変化を経たのち、タヒチ系言語圏を大きく広げた。例えば、マオリ語が [k] と [ŋ] を残している一方で、タヒチ語はそれを残しておらず、調音の緩みや速い発音により単純化され、無声の声門閉鎖音 ([?]) となった。以下の表でタヒチ語、マオリ語、クック諸島のマオリ語の単語を比較する。

文字を持っていなかったポリネシア系言語の性質上、タヒチ語は他のポリネシア諸語と同じくその発展と変化の過程をたどるのが難しい。また文字がなかったことで、書き言葉による特定の変化が言語を固定させることは起きなかった。このこと自身のためにタヒチ語がタヒチ諸語から分化し成立した時点を正確に算出するのは難しい。民族学や植民地化の研究のような他の資料のみがポリネシアにおける言語の拡散とそれに続く分化を説明できるが、タヒチ系方言からタヒチ語への発展のように資料のない内的な変化を明確にとらえることはできない。

タヒチ語の最初の文献が現れ、南海を探検していたヨーロッパ人の手に渡ったのは18世紀になってからであり、それさえも間違いが相当あり声門閉鎖音や長音の書き漏らしも多く、19世紀初めにタヒチに到着したイギリス人宣教師の文書も同様だった。タヒチ語のみを扱った本が出版されたのは1810年になってからだった[1]。1881年にフランスがタヒチとソシエテ諸島を植民地として併合すると、フランス語がポリネシア系言語圏に流入し、独自の言語と文化を代償としてタヒチ社会に文化変容をもたらした。

オーストロネシア系言語にあってタヒチ語のみが14の音素、すなわち9個の子音と5つの母音を用いる。長母音を数えるならばこの数は19になる。そのため、ロマンス諸語と比べるとアルファベットは簡潔であり、必要なのは14の文字だけとなる。以下がタヒチ語のアルファベットである。

’eta(エタ)はポリネシア諸語に特徴的な文字である。これは声門破裂音を表しており、子音の特徴を持つ。この文字はハワイ語の「オキナ (?okina)」とは異なり、アポストロフィ (’) であるが、タイプライターにこの字がない場合は引用符 (') で代用することもできる。これはフランス領ポリネシアでタヒチ語の正書法と文法の規範化を受け持つ公的機関、タヒチ・アカデミーが採用している方法だが、タヒチ文献学界で一致して受け入れられているわけではなく、ラーポト式[2]のように別な正書法を用いる教員やメディアもしばしば見られる。

創始者のトゥロ・ア・ラーポトにちなんで名付けられたラーポト式正書法では、声門破裂音を伴う母音を重アクセント記号を用いて à, è, ì, ò, ù と表す。長母音はラーポト式、タヒチ・アカデミーとも長音記号で表すが、長母音が声門破裂音を伴う場合は曲アクセント記号を用い â, ê, î, ô, û とする。ただしこの方式は、タヒチ・アカデミーの正書法の導入が進み最も広く受け入れられているため、劣勢になっている。さらに、タヒチ・アカデミーの正書法はタヒチ語と同系であるトンガ語やサモア語、ハワイ語で採用された正書法に倣ったものであり、このことがタヒチ語の他の正書法に対する論戦に強みを与えている。

いずれにしても、タヒチ語は語頭でエタを多用するのが特徴であり、音を文字で表すことや大文字の扱い、アルファベットでの順序などが問題となる。

見ての通り、インドヨーロッパ語族の言語でよく見られる [b], [g], [k], [l] の音がない。その一方で二つの咽頭音の存在が際立っている。無声の声門破裂音 [?](古い時代の [k] と [ŋ] の弱化に由来)と、無声の声門摩擦音 [h] である。他の音がポリネシア諸語のバリエーション内に収まっているとしても、子音の体系が単純であるだけに、この二つはポリネシア諸語でも独特のもので独自の特徴となっている。

母音体系に関してはスペイン語と同様に5つの基本母音を持っているが、その各々に長母音があり、したがって [a?], [e?], [i?], [o?] , [u?] の5つが加えられる。タヒチ語の正書法ではこの長母音は長音記号 (¯) で表される。声門破裂音 (’) と長母音(ā など)の組合せでも正書法に特別な工夫はなく、’āpī「新しい」のように文字を続けて書くだけである。長母音や声門破裂音で語の意味が全く変わることがあるので注意が必要である。ava「珊瑚礁の中の通り道」と ’ava(酒の名前)、piti「2」と pītī(木の名前)など。

タヒチ語にありうる音節は、

母音
母音+母音
子音+母音
という構成のものである[1]。

表記上の例外として、タヒチ語では限定詞の ïa で母音の分離記号 (¨) を使う。

文字と音の対応は以下のようになる。
母音連続と変音
タヒチ語における母音の連続と音の変化も複雑ではない。母音が連続した場合は二つを区切って発音するのが優勢なため、母音が短くとも長くとも発音はその組合せによって変わらない。ただし音が変化する母音の連続が5つある。

ai
i が半母音の [j] に変化し [aj] となる。
ae
e が前舌半広母音の [?] に変化し [a?] となる。発音の緩みにより [a?] が [?] となることがある。
oi
o が前舌半広母音の [œ] という音になり、[œi] と発音される傾向がある。
ao
o が準狭準後舌母音の [?] の音になり、[o?] と発音される傾向がある。
au
u が半母音の [w] に変化し、[aw] となる。

アクセント
タヒチ語のアクセントはそれ自身若干複雑であり、語中にアクセントのある母音が二つ以上ありうる。語中のアクセントは以下の規則や派生規則に従う([?] は次の母音がアクセントを持つことを表す)。

長母音は全てアクセントを持つ。
[?ta??ni??ni??to?](tānīnītō,「何かを探し回る」)
2ないし3音節の語で二つないし三つが短母音であるかまたは一つが短母音で一つが長母音である場合、最後の短母音を除いて全ての母音がアクセントを持つ。
[?te?e](tere「旅行者」)、[?te?ra?](te?ā「これ」)、[?mati](mati 木の名前)、[?ma?ti](māti「ランプ」)、[??o?hipa](’ohipa「仕事」)、[?ma??eva] (mareva「急いで通る」)
咽頭音 [h] または [?] がある場合、アクセントの位置は変化する。咽頭音が二つの短母音に挟まれた場合、アクセントは最後の母音に置かれる。一方、最初の母音が長い場合、アクセントは最後の母音には来ない。
[ma?ha](maha「4」)、[?ma?ha](māha「悲しむ」)
2または3音節以上の語で、アクセントは語を構成する2または3音節の独立した単位に適用される。
[?mani?hini](manihini「招待を受ける」)、[?ma??ta???a?e](mātā’are「こんにちは」)、[?ha?a?pu?a?a??a?a](ha’apurarara’a「分散」)

畳語によって作られる単語の場合この現象はより理解しやすい。[?tara?tara](taratara「厄介な」)、[?ta??hana?hana] (tāhanahana「温め直す」)
外国語起源の語で2または3音節以上ある場合、上記の最後の規則は適用されず、最後の母音以外の全母音にアクセントが置かれる。
[?po??o?te?tani](porotetani「プロテスタント」)、[?pe??e?ti?teni](peretiteni「主席、大統領」)
直前の規則はアクセントの位置が明らかでないあらゆる語に適用される。

外来語
主にフランス語や英語からフランス領ポリネシアにやって来た外来語がタヒチ語の正書法や発音に採り入れられることについて、外国語の借用に関するいくつかの決まりごとがあり、単語やその意味がもたらされた状況によりそれが適用される場合とそうでない場合がある。外国語の c, d, g, k, s, x, z の文字により表される音は [t] (t) になる。側音の [l] およびそれに類する音は弾き音の [?] になる。j と y(言語により [?] または [j])は i [i] となる。b([b] またはそれに類する音)は p ([p]) に変化する。よって、president という語はタヒチ語で peretiteni と変化し、「ロシア」は Rūtia となる。

ただし、近年はこの文字転写の決まりごとから外れて、本来タヒチ語にはないにもかかわらず元の言語の音で発音される語が増えている。歴史的には、トンガ語、サモア語、マオリ語の [k] や [ŋ] の音のようにタヒチ語にはない音が他のポリネシア諸語からもたらされる兆候が外来語導入の初期から既にあった。

2009年02月06日

激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅

太平洋戦争では、1944年(昭和19)10月10日に本土空襲に先駆けた激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅し(十・十空襲)、上陸戦開始まえに知事の努力で行なわれた本土疎開でも、学童疎開の対馬丸の被雷喪失など、被害が発生していた。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

1945年(昭和20)3月26日、慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、すさまじい砲撃と空襲を加え進攻してきた。圧倒的なアメリカ軍の火力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置、多くの一般人も戦闘に参加し、日本軍と共に亡くなった。第32軍司令官牛島満が自殺した6月23日に組織的戦闘は終結、実質的な戦闘は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた。

また、戦争に伴って行われたマラリア発生地域への住民の強制疎開や、物資の移動、栄養状態の悪化、マラリアの集団罹患が発生した(戦争マラリア)。

戦後
アメリカの統治による琉球政府

沖縄本島における収容所詳細はアメリカ合衆国による沖縄統治を参照

戦争終結後、アメリカ政府は沖縄県は独自の国で、日本に同化された異民族としてアメリカ軍政下に置いた。しかし、朝鮮戦争の勃発によってアメリカ政府の琉球に対する見方は「東アジアの要石」へと次第に変化し最前線の基地とされると、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。旧日本軍の施設以外に、米軍は軍事力に物を言わせ、住民の土地を強制的に接収した。いわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」である。

1952年(昭和27)4月28日発効の日本国との平和条約で、潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。アメリカは琉球政府を創設して軍政下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。この状況に対し、県民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、また、このころから県民は日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、このころの米大統領アイゼンハワーは、返還する気は全く無かったようである。

1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。1968年(昭和43)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

日本の施政下へ
日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45)に予定される安保延長と共に、沖縄県の本土復帰を緊急の外交課題とした。このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼や学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意を汲み取ることにはならなかった。

1970年(昭和45)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上アメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。アメリカ政府にとっては、日頃温厚と見ていた人々が暴動をおこした事に強い衝撃を受けた。

1969年(昭和44)の日米首脳会談では、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束した。屋良朝苗や復帰賛成派の県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還とされ、佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した。1972年(昭和47)5月15日に琉球政府は沖縄県となり、日本へ復帰した。

また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2,000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7,500万ドルが含まれていた。県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。このため一部の沖縄県民には、「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つ者、琉球独立論を唱える者もいる。また、この本土復帰を日本による琉球再併合と規定し、沖縄返還ではなく第三次琉球処分と呼ぶ者もいる。

現在
米軍の普天間飛行場日本への復帰を記念して、1973年(昭和48)には若夏国体、1975年(昭和50)には沖縄国際海洋博覧会が開催された。しかし、観光以外にこれといった大きな産業がなく、日本で一番完全失業率が高い状態が長年続いている。このため、沖縄県では1998年(平成10)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX(Internet Exchange)の語に掛けて IT Exchange 等の呼びかけを行ない、コールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行なっている。その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴なわないとして箱物行政といった話題も多い。また、2000年(平成12)には主要国首脳会議(サミット)が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。

文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代に沖縄アクターズスクールが安室奈美恵をはじめとする多数の歌手を輩出し、全国的な人気を博した。その後も若手の女優が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。

一方、現在も在日米軍の基地が多くあり、日本にある在日米軍基地の75パーセント(面積比)が沖縄県に集中するという歪な構造となっている。これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による県民への暴行事件などがしばしば起きている。とくに1995年(平成7)の少女強姦事件は、治外法権の認められた基地に逃げ込んだ容疑者を沖縄県警が確保できない事態となり、日米地位協定の理不尽さを露呈させた。強姦事件により県民の間には米軍基地の早期返還を求める声が再度強く挙がり、これを受けて1997年(平成9)に日米両政府は普天間飛行場の全面返還を発表したが、移転先の選定が難航した。2004年(平成16)に普天間飛行場所属のヘリコプターが大学構内に墜落した事故は、同飛行場の危険性を危惧する世論を再燃させた。2006年(平成18)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍再編が決定したものの、実現には課題が少なくない。一方、永久に続く超大国は歴史上なく、遠い将来仮に米軍が撤退すれば沖縄県に基地が集中することは、なくなるだろうが、国境地帯という立地にかわりはない。

2009年01月22日

戦時中の朝鮮(挺身隊)

もともと朝鮮では徴用を忌避する傾向があり、太平洋戦中には挺身隊に行くと慰安婦にされるという噂があった。ただし1960年代までは、その噂を事実と認める韓国の研究者はいなかった。[7][62]

慰安婦本の出版
1972年(前史)
女性史研究者 山崎朋子の『サンダカン八番娼館』が刊行され、ベストセラーとなる。社会の底辺に生きた海外売春婦「からゆきさん」を取材。
1973年
元「毎日新聞社記者でノンフィクション作家の千田夏光が『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』を出版(1974年に続編の『続・従軍慰安婦』を出す)。これらの本では「挺身隊」の名の元に動員された朝鮮人女性20万人のうち、5?7万人が慰安婦にさせられたとしている。
1975年
禾晴道『海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記』が出版。
1976年
1月 『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(金一勉 『三一書房』)が出版。
1977年
3月 吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社)が出版。
12月 『軍隊慰安婦―戦争と人間の記録』(金一勉 『現代史出版会』)が出版。
1978年
12月 山田清吉 『武漢兵站 ?支那派遣軍慰安係長の手記?』(図書出版社)が出版。
1982年
9月・11月 第二次世界大戦の戦前、戦中に、当時日本領だった樺太(現サハリン州)に渡った朝鮮人の韓国への帰還を日本政府に対して請求する「樺太裁判」(樺太残留者帰還請求訴訟)で、吉田清治が原告側の証人として朝鮮人の「奴隷狩り」(強制連行)を証言。

吉田証言以降
1983年
1月 吉田清治が『私の戦争犯罪?朝鮮人連行?』において韓国の済州島において慰安婦にするための205人の女性を強制連行したと告白。初めての加害証言となる。韓国の天安市に「謝罪の碑」を建立。韓国のテレビが「謝罪の旅」として1時間番組を放映。日本、アメリカなどで謝罪講演をして回る。
11月10日 『朝日新聞』が「ひと」欄で、吉田清治が「謝罪の碑」を韓国に建てたことを写真入で紹介。
1989年
吉田の著書が韓国語に翻訳され、韓国で出版され、史実としてドラマ化され、韓国で「従軍慰安婦問題」への関心が高まる。
5月 大分市の主婦で「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会」[63]の事務局員、青柳敦子 [64]が『朝日ジャーナル』(1989年5月19日号)に、「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」という意見広告を出す(同年12月まで隔週で15回)。
8月14日 吉田清治の記述内容に疑問を持った『済州新聞』の許栄善記者が現地調査したルポを『済州新聞』(8月14日付)に発表。慰安婦狩りの話を裏づける証言する人はほとんどおらず、島民たちが吉田の本の信頼性に疑問を呈していること、郷土史家の金奉玉が追跡調査した結果、吉田の本が事実でないことを発見し、「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨したことなどを報告。
11月19日 青柳敦子と在日朝鮮人の宋斗会[65]が日本政府に謝罪と補償を求める裁判を起こすため、韓国で訴訟費用を負担する条件を付け「慰安婦裁判の原告募集」のビラをまく。[66]数週間後にソウルの「太平洋戦争犠牲者遺族会」から協力したいという申し入れが来る。
1990年
1月 4日?24日 『ハンギョレ新聞』(現:ハンギョレ)紙上で、韓国の梨花女子大学教授の尹貞玉が「"挺身隊"怨念の足跡取材記」と題する4回に渡る連載で慰安婦問題を告発し、韓国で大きな反響を呼ぶ。
6月6日 参議院の予算委員会で、 日本社会党本岡昭次の朝鮮人の強制連行に関する質問において、政府(労働省職業安全局長)は「国家総動員法に基づく業務として慰安婦の強制連行は行っていなかった」、「古い人の話等からも、民間業者が慰安婦を軍と共に連れ歩いていたらしく、実態調査はできかねる」という旨の答弁をする。
7月10日 韓国において、慰安婦問題の真相究明と問題解決のために「挺身隊研究会」(現:「韓国挺身隊研究所」)が結成される。
10月17日、韓国の37の女性団体が日本の海部俊樹首相に慰安婦問題に関する政府への6項目の要求[68]を示した公開書簡を送付。6月6日の国会で慰安婦の強制連行を否定した労働省職業安全局長の発言を「歴史的事実に反する無責任な発言」と糾弾。
11月 韓国で「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」が発足。ソウルの日本大使館前で日本軍による「慰安婦問題」に対する抗議デモを行なう。(以降毎週水曜日にデモ(水曜デモ)を行なうことが恒例となる)
1991年
4月1日 参議院の予算委員会で、 日本社会党本岡昭次の従軍慰安婦に関する質問において、労働省の政府委員は「手がかりになる資料がない」という旨の答弁をする。
4月24日 ソウルの日本大使館が尹貞玉韓国挺身隊問題対策協議会代表を呼び、「日本軍が強制連行した証拠はない」、「補償は日韓協約で解決済み」と伝え、挺対協からの六項目の要求[68]を拒否すると回答。
5月22日 『朝日新聞』大阪版が「木剣ふるい無理やり動員」との見出しで吉田清治の慰安婦狩りの証言を写真入で紹介。
10月10日 『朝日新聞』大阪版が井上祐雅編集委員による吉田清治のインタビュー記事を掲載。 吉田は「慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供を引きはがして連行した」、「政府は資料を隠している」などと述べる。

元慰安婦の登場以降

8月11日 『朝日新聞』が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(韓国特派員植村隆のソウル発記事)との見出しで、で、「日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。」と報じる。
8月14日 元慰安婦の金学順がソウルで記者会見。14歳の時、家が貧しかったのでキーセンハウス(売春宿)に売られ、17歳になったとき、キーセンハウスの経営者である義父に華北にある日本軍の慰安所に連れて行かれた[72][73]事などを述べる。[74]
12月6日 金学順を初め3名の元慰安婦を含む35人の原告(主任弁護士:高木健一)が日本政府を相手取り、謝罪と補償を求め提訴。(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件)
1992年
1月11日 宮澤喜一首相訪韓の5日前のこの日、『朝日新聞』は一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」との見出しで、「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していたことを示す通達類や陣中日誌が、防衛庁の防衛研究所図書館に所蔵されていることが明らかになった」、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万人とも20万人ともいわれる」と報じる。
1月14日 韓国の多数のマスメデイアが、前年に日本のテレビで女子児童が挺身隊として勤労動員されたという報道を誤解し、「国民学校の生徒(小学生)まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」などと報道[75]。
1月16日 韓国を訪問した宮沢首相は慰安婦問題の報道により反日デモが高まる状況に、首脳会談で8回謝罪し、「真相究明」を約束する。韓国国会においても「実に心の痛むことであり、誠に申し訳なく思っています」と述べる。盧泰愚大統領は、記者会見で「韓日が同伴者関係を構築するためには、日本が過去の歴史を正しく認識し、過ちを謙虚に反省する土台が必要」と語る。
1月23日 『朝日新聞』夕刊の「窓」欄で、「強制連行した女性は950人」、「強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います」との吉田清治のインタビューを掲載。
2月17日 日本弁護士連合会の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会において、慰安婦問題を人道上の罪だとして国連の介入を求める。
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2月25日、韓国政府が被害者申告センターを設置し、被害の申告と証言の受付を始める。
5月25日 『朝日新聞』が7月、吉田清治が韓国に「謝罪の旅」に出ること、吉田は強制連行した体験を「国会でもどこでも行って話す」つもりと語っていることなどをを紹介。
6月 『正論』(1992年6月号)の「昭和史の謎を追う?第37回・従軍慰安婦たちの春秋」と題するルポで、千葉大学教授の秦郁彦は済州島での実地調査により、吉田が慰安婦にするための女性を1000人近く徴用したという事実はないことが判明したと主張。
7月6日 日本政府が吉見教授の資料発見を受けて行った慰安婦問題に関する調査結果を発表。100を超える関係資料を公開。加藤紘一官房長官(当時)は「朝鮮人女性の強制連行を裏付ける資料は発見されなかった」としながらも、「慰安所の設置や運営・監督などに政府が関与していた」ことを初めて公式に認める。
7月7日 『朝日新聞』が日本政府が上記慰安婦問題に関する調査結果の資料を改変していたことが見つかる。(『朝日新聞』 1992年7月7日付 31面 )
7月 韓国政府が「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を発表し、「日本政府による慰安婦の威圧的連行があった」と主張。「強制連行なし」とした日本政府に追加調査を求めるとともに、日本の歴史教科書への記述と学校教育を通じた「過去の正しい認識」の周知を要請。
12月  中央大学教授吉見義明が『従軍慰安婦資料集』(大月書店)を刊行。その中で「一般には、強制連行というと人狩りの場合しか想定しない日本人が多いが、これは『狭義の強制連行』であり、詐欺などを含む『広義の強制連行』の問題をも深刻に考えてしかるべきであろう」と「広義の強制性」という主張を始める。
12月25日 韓国釜山市などの元慰安婦ら10名が、日本政府に公式謝罪と賠償を求めて山口地方裁判所に提訴。(釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟)
1993年
2月1日 韓国で元慰安婦らの証言集『強制連行された朝鮮人「慰安婦」たち』(韓国挺身隊問題対策協議会、挺身隊研究会編)が刊行される(2001年末現在第5集まで刊行。日本ではその10月に『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』として刊行)。
『現代コリア』(1993年2・3月号)紙上で、現代史研究家の加藤正夫が、千田夏光の『従軍慰安婦』(講談社文庫 1984年)の中の嘘を暴露。
3月 韓国政府が国内の元慰安婦135名に対して500万ウォン(約74万円)の支給などの支援策を発表。また、日本の教科書に慰安婦に関した記述をするよう求める。
4月2日 フィリンピンの19人の元「慰安婦」らが日本政府の謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴。原告は、最終的には46名となる。1998年10月9日、地裁で慰安婦側の請求を棄却、2000月12月6日、控訴棄却、同年12月25日、最高裁判所への上告が棄却され、慰安婦側の敗訴が確定。
4月 元慰安婦の宋神道(ソン・シンド)が、二次大戦中約七年間にわたりいわゆる従軍慰安婦とされ肉体的精神的苦痛を受けたとして、日本政府を相手取り、国際法及び民法に基づき、日本政府に謝罪のみを求め(後には損害賠償を求める)、東京地裁に提訴。(1999年10月1日、一審で請求棄却、2000年11月30日、控訴審の判決も請求棄却)
6月 高校日本史検定済み教科書7社9種類のすべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載されることが判明。
6月11日 韓国で「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」が制定、同年8月から元「慰安婦」に一時金、生活費の支給を行う。

2009年01月15日

薬物を購入するための資金を得るために

シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

種類により症状は様々であるが、多くの場合薬物依存症に苦しむこととなる。また薬物の作用による幻覚状態や譫妄・錯乱状態あるいは薬物を購入するための資金を得るために、自殺をしたり殺人のような犯罪を引き起こすことも珍しくない。

また、麻薬の乱用により精神的・身体的の両面で障害を引き起こす場合がある。
乱用者が薬物乱用の発覚を恐れるため、乱用の事実をしばしば隠す。このため、薬物依存症の患者として医療施設で治療が行われているのは、患者群の一部に過ぎないと思われる。麻薬は耐性を獲得しやすいとともに逆耐性の機序を持つために治療は長期化する傾向にある。
また、患者の意志が弱い場合、過去の麻薬入手の経験により一般市民より麻薬の入手が容易であるためにしばしば中断する。

法規制
麻薬及び向精神薬取締法では、一般市民に対して違法麻薬の所持・譲渡・製造・医療目的以外・輸出/輸入が厳しく規制されている。また上記内で毒性の強い麻薬は、覚せい剤取締法やあへん法、大麻取締法の特別刑法によって規制が行われている。
いわゆる脱法ドラッグに関しては薬事法での医薬品、医薬部外品などの製造、流通にあたるとして規制を図っているが芳香剤や観賞用試薬という偽装理由を提示されることから規制しきれていない。

法運用の限界
現在、違法麻薬に指定されている化学物質と化学式が非常に良く似ているが違法麻薬には指定されていない薬物(デザイナーズ・ドラッグ)を意図的に作り出したり、向精神薬取締法で購入が規制されている向精神薬を精神病治療と偽って入手した精神治療薬が密売され、麻薬的に使用される(違法ドラッグ・脱法ドラッグなどと呼ばれる)という現象が社会問題となっている。

たばこやアルコール飲料については薬理学としては中毒性物質ではあるが、ニコチン依存症やアルコール依存症・急性アルコール中毒という習慣性・常用・乱用に発展するという点が麻薬と酷似している。

一方、国も麻薬及び向精神薬取締法に基づき、政令により麻薬指定を進めてはいるものの[2]、指定が化学物質名であることから指定が後手後手になりがちである。

また作用が似ていても化学的構造が少しでも異なれば違法麻薬として法で取り締まることは出来ず、仮にそれらを違法麻薬に指定しても次々と新しい物質が作られるという「いたちごっこ」が続いている。しかし化学的構造や作用が違法麻薬に似ているのであれば、法的には違法麻薬でなくとも危険性は違法麻薬に準じるものと考えられ、実際に健康被害や死亡例の報告もある。

国や自治体により、生体物質に対して麻薬作用を起こす化学物質の薬物を特定し、それらと似た化学物質と化学式を持つ薬物を一括して違法麻薬として指定するなどの法対策が考えられているが、いまだ解決には至っていない。

刑罰
麻薬の乱用により犯罪が誘発されることからほとんどの国では治安維持のために法規制されており許可無く製造・所持・使用すると刑罰が科される。フィリピン、スリランカ、マレーシア、シンガポール、中華人民共和国のようにアジア諸国には死刑を科す国も存在する。[3]。受刑者移送条約の非締結国で罪を犯した場合、日本より重罪な刑期をむかえることになる。

しかし、麻薬常習者に対して単に刑罰を科しただけでは薬物依存症から抜け出せないため、薬物依存治療で精神科に入院したり、刑法違反の累犯で刑務所に収監される人が後を絶たない。

このため、「薬物依存者には刑罰よりも治療が必要だ」とする意見も多くオランダのように大麻について刑法上は違法となっているが所持・摂取に対しては刑を執行しない事例も見られる(オランダの薬物政策を参照)。また、日本では医療刑務所に収監するケースも見られる。

医療と麻薬
麻薬(定義1)は、痛みに対する感覚を鈍らせる。そのため、モルヒネやコデインは鎮痛剤として医療の現場で処方される。麻薬性鎮痛剤として、モルヒネのような効果を持つメペリジン(商標名:デメロール)やメタドンが開発されている。メタドンはヘロイン中毒の治療に利用されるが、メタドン自体に依存性があるため、この薬の使用には賛否両論がある。薬剤の研究者は、これらの鎮痛薬の依存性を中和する方法を探る過程で、麻薬に反応する脳内の受容体(オピオイド受容体)を発見した。脳内麻薬と呼ばれることもあるエンドルフィンは、人体に存在する天然の鎮痛物質である。麻薬はエンドルフィンと同様の働きをし、オピオイド受容体と結合することが明らかになった。麻薬のアンタゴニストとして作用する薬物は、麻薬の作用を阻害し、乱用や過剰摂取の症状を逆転させる。こうして、アヘン剤とオピオイド受容体のアンタゴニストを組み合わせることにより、副作用の無い新しいタイプの鎮痛剤が作られるに至った。

文化と麻薬

ヒッピームーブメント
定義2、3に該当する麻薬LSDは、1960年代後半に欧米を中心に爆発的に広まり、ヒッピームーブメントを生みだした。音楽、文学、映像、絵画、ファッションなどに大きな影響を与え、ベトナム戦争の反戦運動や精神世界、東洋哲学、エコロジーなどへの関心を集めた。中心人物として、元ハーバード大学教授のティモシー・リアリーや、『カッコーの巣の上で』を書いたケン・キージーなどがあげられる。